教える前に、子どもの基本的人権を保障、尊重し、理解すること
教師や学校や教育委員会は、子どもに教える前に子どもの基本的人権(発達権・学習権)を保障し、尊重し、理解することです。
特に、教師は子どもの人権の理解に乏しい職業であると感じています。
教師は、「子どもは自分と関わりあるすべての事について意見を表明でき、その意見は正当に重視される」ことや「子どもは遊んだり、休んだりする権利を持っている」ことを「こどもの権利」だと思っていないようです。
また、子どもの権利としてふさわしくない内容なのですが「子どもは義務や責任を果たすことで権利を行使することができる」や「子どもは成長途上のため、子どもに関することはいかなる場合も大人が子どもに代わり決めるよう推奨される」を子どもの権利だと思っている教師がいるようです。
ここから、発想される教師像ですが、子どもは無能な怠け者で、教師が教えなければ学べないとか学ばないと考えるのが通例です。もうこのような思い込みから抜け出しませんか。
教える前に、その子の「得意な・特異な・こだわり・特別な・特殊な・スペシャルな・オタク的な」などその子の基本的人権である発達や学習の「その子らしさ」を尊重しなければなりません。
この基本的人権である「その子らしさ」を教師が学校があるいは教育委員会が疎(うと)んじるから、また、教師が「私が治してやる」など誤った教育手法を使うから、不登校、学級崩壊等になっているのです。昔のことですが、「情緒不安」を情緒障害と称して、教師が情緒を安定させたなど自慢気にいう方がおりましたが、第三者でどうにかなるものではありませんし、どうにかするものでもありません。
学校で教えるのであれば、まず、その子の基本的人権を保障し、理解すべきです。保障し、尊重し、理解しない限りその子への学びにはつながりません。
これからの教育である「個別最適な学びと協働的な学び」とは、「教える教育から環境を整える教育へ」の転換です。と、解説しました。
その要点は、すべての子どもは生まれながらにして「有能な学び手」であるという理解です。適切な環境に出会えば、自ら進んで学びます。
これを学級で行うためには、先ほどの基本的人権である「その子らしさ」を保障し、尊重し、理解しなければ、学びは進みません。
教師が一方的に口頭で教え込む一斉伝達型ではないのです。また、今までのような教師が情報の伝達者やゲートキーパー型から脱却し、生徒も教師も等しく知識データベース等にアクセスできる教育のためには、「その子らしさ」と共有する必要があります。
教える側の仕事は、学習環境整備と足場架けです。徹底した情報開示と見とりと支援が必要です。子どもたちはタブレット端末などから必要な情報を探し出し、課題に照らして、自分なりの「その子らしさ」の答えを探し出す「自立した学習」が見出せるのです。
すべての子どもは幸せになる権利を有しています。教室における子どもの多様性は、いよいよ高まっています。子どもたちの基本的人権としての「発達権」や「学習権」を十全に保障する必要があります。学習の弊害は子どもの側にあるのではなく、カリキュラムや学習環境の側つまり、子どもを教える側にあるのです。
今まで学習の弊害と感じていたものは、基本的人権としての「その子らしさ」として、保障し、尊重し、理解してください。また、教師が足場架けをし、学校が教育委員会が学習環境整備を行うことが、「個別最適な学びと協働的な学び」に必要不可欠なのです。
また、このことは子どもたちにテニスを指導する指導者にも同様です。